以上の議論に基づき児童ポルノの問題を考えると、まず実在する児童を撮影した実在児童ポルノについては、その児童の自己所有権が明らかに侵害されているわけだから、全く容認の余地がない。実際、世界的に見ても、実在児童ポルノを擁護する声というのは皆無ではないかと思う。日夜、実在の人身売買や児童虐待と戦っている人々が多くいる。以前、スウェーデンにおける非実在児童ポルノを巡る裁判においてスウェーデン警察が、
一方、児童ポルノの摘発に力を入れるスウェーデン警察は、「性的虐待にさらされる恐れのある子どもたちを、空想のイラストと同レベルに扱うべきではない」と批判。既に警察は虐待の加害者の取り締まりで手一杯で、同裁判の焦点は児童ポルノ対策から外れているとして、「イラストまで捜査対象に加えれば、被害に遭っている子どもたちを助けるための時間が削られてしまう」との見解を示している。
と述べたそうだが、これは児童ポルノ取り締まりの現実を雄弁に物語っている。
加えて、そもそもそれは本当に実在児童ポルノなのか、というのは慎重に検討する必要があろう。日本人を含むアジア人は、欧米人からは実年齢よりも若く見えるという。この場合、被写体は実は児童ではなく、同意が有効である可能性があるわけだ。実際、かつて30代の日本人グラビア女優の画像が、海外で児童ポルノ扱いされるという珍事件もあった。
では、漫画やアニメ等の非実在児童ポルノはどうか。
とりあえず、実在する児童のポルノ写真をトレースし、絵画だと言い張る者がいたが、これは実在児童ポルノの範疇であろう。
そうではなく、完全にイマジネーションに基づいたキャラクターが描かれた、非実在児童ポルノはどうだろうか。非実在のキャラクターなので、被害者は存在しない(そもそも「児童」なのか、あるいは人間なのかすらも分からない)。そもそも侵害される他者が存在しないのだから、不可侵原則にも他者危害原則にも抵触しないということになる。児童ポルノを見たり描いたりすることへの倫理的、宗教的批判はありうるかもしれないが、それは法的責任とは別の話で、結局は個人の愚行権の範囲内、というのがこれまでの議論から導かれる結論だと思う。
基本的にはこれで話が終わってしまうと思うのだが、それでもなお非実在児童ポルノを規制したいという場合、どのような論理が考えられるだろうか。今までの議論からすれば、最低でもこの場合、他者への侵害が何らかの形で確かに存在する、ということを、説得力ある形で示す必要が出てくる。
一つの方向は、非実在児童ポルノを見ることが、実在の児童虐待や児童性暴力といった犯罪行為を明らかに増加させるということの証明である。メディアを見ればなにがしか影響されるのは当たり前だが、それが実際に犯罪行為を誘発するかは話が別だ。この因果関係が証明されるのであれば、非実在ポルノの規制は予防措置としてある程度正当化できるかもしれない。
この点に関し、ブログで渡辺真由子氏自身のこれまでの研究を再検討した人がいるが、結局渡辺自身も含め、誰も因果は証明できていないようである。今後この分野の一層の研究が待たれるところだろう。とはいえ、個人的には、そもそもフィクション程度に安易に影響されて犯罪に走らないよう、性教育、メディア・リテラシー教育を充実させるほうがはるかに生産的だと思うが…。
もう一つの方向は、非実在児童ポルノの存在により、具体的に実在の児童の「何か」が侵害されるのだ、ということを、説得力ある形で示すことではないかと思う。渡辺の前掲書は、タイトルからするとそもそもはそれが狙いだったのではないかと思われるのだが、批判サイトを見る限りでは、「何か」が何なのか定義することに失敗しているようである。渡辺としては、それは「人権」だと言いたいようなのだが、非実在児童ポルノと実在の児童は何の関係もないわけで、かといっていわゆる集団的人権説を採るわけでもなく、かなり無理のある主張のように思われる。